2002年も6月18―23日に北海道・札幌市内で展開された「YOSAKOIソーラン祭り」。この年で11回を数え、参加者、観客数とも年々増加しており、大きな経済効果を生み出している一大イベントである。この祭りに対し北海道新聞が、在り方を問い直す趣旨で日高晤郎≠フ個人的な印象などを、問題提起の形で掲載した。「なるほど、らしい、らしい」と私などは思ってしまうのだが、この中で晤郎は何を語ったのか。同新聞からの抜粋で紹介する。


■■この祭りは高知県のよさこい踊りと本道のソーラン節を融合させたもので、大学生らが1992年に立ち上げた。2002年は344チーム、44,000人が参加。会場も札幌市内の27ヵ所に及んだ。踊り手のルールは鳴子を持つこと、曲の中にソーラン節の一節を入れること―の2点だけ■■  



「祭り」ではない
 中身は結局、学生が始めた「イベント」の域を出ていない。祇園祭や三社祭に参加したこともあるが、街のそこかしこで酒が振る舞われたり、市民が道すがら声を掛けてくれたりする気安さや温かさがある。みこしをかつぐ人も、かつぎ手を見守る人も、みんながわくわきし、血をたぎらせる―それが祭りではないか。

マスゲームのよう
  YOSAKOIには札幌全体が浮き立つような楽しさはない。高価な衣装をそろえ、振り付けを必死に覚える。マスゲームのようで、練習の成果を披露する踊り手だけが喜んでいる。だれもが、どんな服装でもどんな振り付けでも自由に参加できるのが、祭りのあるべき姿ではないか。

「共有」がない
  「躍る阿呆と見る阿呆…」というが、YOSAKOIには「同じ阿呆」という優しい感覚に欠け、祭りの最大の素晴らしさである「共有」がない。

観客と距離感
  昨年、あるチームが踊り終わった後、観客に向かって声をそろえ「ありがとうございました」と礼を言った。踊り手が、参加者ではなく出演者として、参加者という同じ立場であるはずの観客を見下ろし、観客との距離を自ら広げているように感じた。観客に踊りを見学≠ウせるだけで、参加させていないのだ。

参加を制限
  メンバーをオーディションで選ぶチームもあると聞く。参加を制限するなんて、祭りの精神とはほど遠い。いっそ「YOSAKOI コンクール」に名前を変えたらどうか。

マナー守れぬ踊り手
  そろいの衣装とペインティングで徒党を組み、地下鉄やホテルなど公共の場における一般的なマナーも守れない踊り手も少なくない。このイベントに関係ない人を威圧し、無言にさせている。経済効果がいくらあっても、YOSAKOIは市民に心の潤いを与えていない。そうした現実を謙虚に受け止めるべきではないか。



私の感想
  参加チームが確かに、セミプロ化≠オている現実があるように思う。高度にトレーニングを積んで振り付けもこなすようになった集団は、それ自体が単独でも通じるユニット≠ノ進化を遂げているようだ。

  だから、これらチームはその後も他のイベントに招かれて、YOSAKOIで演じた踊りを再現して見せるのだ。こうした現実の中では、晤郎が指摘するようにチームはYOSAKOIにおいて出演者≠ナあり、そこには観客との共有感が失せているのである。

  ここで見落としてならないのは、このようにして人前で演じ慣れてしまったチームが、所詮は素人集団≠ナあるはずなのに、あたかも自分たちを芸人≠ニ錯覚し、つい増長を隠し切れなくなること。自分たちの身の丈≠決して誤解してはならない。

  昔と違って、今の観客はゆっくりと時間を使って祭り見物をする、ということが少なくなっている。忙しすぎるのか。従って、観客側も冷めた見方をする傾向は否めないようだ。つまり、YOSAKOIでの踊り手、観客の一体感喪失があるとすれば、それは双方に少しずつ問題がありそう。

  晤郎の言う「YOSAKOIは市民に潤いを与えていない」は極言だろうか。あるいは的を射た直言なのか。これには賛否両論が当然あろうが、この晤郎論≠きっかけに、「潤いとは何か」「祭りの原点とは何だったっけ」という基本的なテーゼを、あえて私たちに考えさせようとした晤郎の仕掛け≠、私は見逃さない。なぜなら、私は昨日今日の晤郎ファンではないのだから―。
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